生きるのがちょっと楽になる四次元の話
- さとし おみ
- 7月13日
- 読了時間: 5分

悩みの中にいると、その悩みが世界のすべてのように感じられる。
仕事がうまくいかない。人との関係が苦しい。この先どうすればいいのか分からない。
考えても答えが出ないとき、私たちはさらに考えようとする。けれど、もしかすると答えが出ないのは、考え方が足りないからではなく、そもそも見えている範囲があまりにも限られているからなのかもしれない。
YouTubeチャンネル「吉祥寺てあて院」の動画『生きるのがちょっと楽になる四次元の話』は、「次元」という一見難しそうなテーマを通して、そんな可能性を語っている。
ただし、これは四次元を数学や物理学として厳密に解説する講義ではない。四次元というイメージを借りながら、悩みや身体、人との距離感を捉え直していく約52分の対話だ。
平面の世界に、ドーナツを通したら?
動画の中で、特に印象に残るのが「ドーナツ」のたとえだ。
高さのない平面だけの世界に、住人がいるとする。その世界へ、私たちの暮らす三次元から立体のドーナツを通してみる。
平面の住人に見えるのは、ドーナツ全体ではない。平面とドーナツが接している、その瞬間の断面だけだ。
何もなかった場所に、突然、小さな形が現れる。それが大きくなり、二つに分かれ、再び一つになったかと思うと、最後には消えてしまう。
平面の住人からすれば、まるで理解不能な怪奇現象だろう。
しかし、三次元にいる私たちから見れば、起きていることは単純だ。ただドーナツを平面に通しただけである。
平面の世界で見えていた不可解な現象は、ドーナツそのものではない。より大きな存在の、ごく一部の断面にすぎなかったのだ。
私たちが見ている現実も「断面」だとしたら
動画では、この関係を二次元と三次元だけでなく、三次元と四次元にも当てはめていく。
私たちが現実だと思っているものも、もっと大きな世界の一部分、いわば「端っこ」や「接点」にすぎないのではないか。
もちろん、四次元の全体像を三次元にいる私たちが直接見ることはできない。平面の住人が、立体のドーナツを丸ごと想像できないのと同じだ。
それでも、「今見えているものがすべてではない」と知っておくことはできる。
この発想を人生に置き換えてみると、少し呼吸がしやすくなる。
いま抱えている問題も、人生の全体ではない。目の前の失敗も、その人のすべてではない。誰かから見えている自分も、自分の全体ではない。
大問題にしか見えない出来事も、実は巨大なドーナツを一枚だけ切り取った断面なのかもしれない。
「一部分だから大切ではない」という話ではない
この動画が面白いのは、高次元を持ち上げて、現実の世界を軽視する話にはならないところだ。
いま触れている三次元の現実が「端っこ」だとしても、端っこは本体の一部である。
身体、日々の生活、人との関わり、楽しいことや苦しいこと。それらを「どうせ低い次元の話だから」と投げ出してしまうのは違う。
動画で繰り返し語られるのは、次のような感覚だ。
「接点はとても大事。でも、接点がすべてではない」
いま目の前にある現実を大切にする。けれど、それだけを世界のすべてだと思って抱え込まない。
この両方を持っておくことが、生きることを少し軽くしてくれる。
人との関係も「接点」として考えてみる
この考え方は、人間関係にもつながっていく。
私と誰かが出会う。言葉を交わす。手を触れる。何かを伝え合う。
それは、お互いのすべてが混ざり合うことではなく、それぞれに奥行きを持った存在同士が、一つの場所で触れ合うことなのかもしれない。
触れ合うことは大切だ。けれど、相手の内側へ無理に入り込み、考え方を変えようとしたり、自分の価値観を押し込んだりすれば、それは接触ではなく侵入になってしまう。
近づけば近づくほど相手を理解できるとは限らない。
動画の中には、「近づきすぎると次元が落ちる」という表現が登場する。立体も、顔を近づけすぎれば面しか見えなくなり、最後には視界そのものが真っ暗になる。
人間関係も同じなのだろう。
分かろうとしすぎる。意味を求めすぎる。相手のすべてを知ろうとする。
その熱心さが、かえって相手の奥行きを見えなくしてしまうことがある。
触れる。でも、押し込まない。関わる。でも、相手のすべてを決めつけない。
動画で語られる「手当て」という言葉には、そんな距離感も含まれているように感じた。
考え続けることが、苦しさを深くすることもある
問題が起きると、私たちは意味や原因を探す。
「あの出来事にはどんな意味があったのか」「相手はなぜあんなことをしたのか」「どう考えれば正解なのか」
けれど、言葉にした瞬間、私たちは全体から一つの側面を切り取っている。
言葉や理屈は役に立つ。考えることも必要だ。ただ、それだけで世界の全体像をつかめるとは限らない。
考えても考えてもしっくりこないときは、「もっと考えなければ」と自分を追い込む前に、こう問いかけてみてもいい。
これは、全体ではなく一つの断面なのではないか。私は目の前の現実に、近づきすぎていないだろうか。いまは答えを出すより、ただ感じればよいのではないか。
楽しいなら、まず楽しさを感じる。嫌なら、違和感を無視しない。疲れているなら、身体を休ませる。
そこに立派な理由や意味をつけなくてもいい。
理解するより、少しだけ視界を広げる
この動画には、次元、量子力学、魂、チャネリング、手当てなど、さまざまな話が登場する。聞く人によって、納得できる部分もあれば、距離を感じる部分もあるだろう。
けれど、すべてを事実として受け入れなければ、この動画を楽しめないわけではない。
むしろ「そういう見方もあるのか」と、思考の枠を少し緩めながら聞くのがちょうどいい。
いま目の前にあるものは大切だ。でも、見えているものだけがすべてではない。
その感覚を持てるだけで、解決できない問題を無理に解決しようとする力が、少し抜けていく。
人生に深刻になりすぎているとき。誰かを理解しようとして、かえって苦しくなっているとき。考え続けることに疲れてしまったとき。
「自分が見ているのは、巨大な世界の一断面かもしれない」
そんな想像をしてみると、固まっていた視界に、ほんの少し奥行きが戻ってくるかもしれない。



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